2018/07/29

 物語についてここ数か月とりとめもなく考えることが多い。文学論上のいわゆるナラティブのような話ではない、どちらかと言えば卑近な因果の図式についてだ。いまの苦労がいずれ糧になる、のような。

 科学の法則でもない現実の因果について的確な回答なんて導出できるはずはないのだけど、どうしてか、ひとは奇妙な因果に囚われ、その奇妙な因果を証明するかのような出来事が起こったりする。それもまた偏見というもので、発生しえなかった物語は、目立たないままひっそりとあるがままに事が運んだのだろう。やがて現実という言葉に要約される。

 

 いわゆる地下鉄サリン事件でたまたま遅刻したおかげで事件に巻き込まれなかった逸話のようなものだ。その偶然は、生き延びたひとに何らかの認識をもたらしたかもしれない。自分は運がいい、とか、選ばれている、とか。一方で確かに死んだひともいる。彼らは不運なのだろうか。強運も不運も、ひとしく偏見に過ぎないとぼくは一応はそのように思う。にもかかわらず、ひとは過度に因果を見出すし、ぼくもまたそうした人々のうちのひとりだ。ぼくらは平然と運命という言葉を使う。そうした運命、因果の綾を物語と呼ぶ。日々様々なメディアを通じて消費する。

 

 そういう意味での運命に執着していた時期のじぶんは精神的にも経済的にも非常に危うい状況にあった。経済面にかんしては破滅寸前まで行った、といってもよいだろう。寸前、と書いてしまったのは、意想外な一手によりそれを免れたからだ。それはぼくの意識に何らかの認識をもたらしてしまった。日々分を守って生活するつつましい市民のリアリティには同調できないが、さりとて破滅し、路上生活などを営んでいる人間のリアリティには触れ得ないという程度のものを。破滅体験はひとを一挙に偉大にするのではない。ただストレスから救済され、別な日々の義務が生じただけだ。生きているそれだけだ。

 

 精神面に関してはもうひとつあるのだが、ひとりの、いまは去って帰ってこないひとにまつわる悔恨と再会への待望がそれをもたらした。かつて、どうしてぼくらは再会する筈だと、臆面もなく信じていられたのだろう。そのときぼくは物語を信じていたのだ。愛する者同士は別れてもいずれ巡り会うのだと。

 まいにち彼女のことを考え、詩に彼女の面影を刻もうと試行し、彼女が不在の世界に彼女の痕跡を探した。最後のひとつは完全な徒労だった。でもやめることが出来なかった。小説「失われた時を求めて」に、アルベルチーヌについてだが、二度の死という表現が登場する。一度目は実際に消え、二度目は忘却してしまうことだ。ぼくは絶対に二度目の死は喰いとめなければならない、という強迫観念の最中にあった。それが当時のぼくに可能な彼女への誠実だと思われたから。

 

 けれども或る日、雨だったが、きりきりと張り詰め強迫された精神のまま、労働を終え帰路を歩く道すがら、ふときざした。彼女のなかで、ぼくはとうに死んでいる、と。それもまた単純に、根拠のない、じぶんの限界をそのように他者に責を押し付け表現したに過ぎないものだった。が、そのとき擦過した認識のリアリティは確かで強かった。小説のアルベルチーヌは実際にその肉体が死んだが為に、二度目の死は彼女の記憶を反復する語り手のなかでのみ執り行われるほかないが、ぼくの世界でのアルベルチーヌは、おそらくだが生きており、ただ消息をもはや知ることが出来ない。すなわち行為可能な存在はぼくだけではないのだ。それでも再会はない。あれだけ弓を引くように、強くつよく待望した物語の結末が幾年を経ても到来しないこと。これが答えだった。そして、その結論を得て以来、ぼくのなかでも彼女の二度目の死が進行しつつある。もはやさしたる良心の咎めもなく。

 

 「失われた時を求めて」の語り手はその後、憧れのヴェネチアに赴きそこでジルベルトからの手紙を受け取る。ジルベルトは語り手の初恋の相手だ。でもぼくには赴くヴェネチアはない。ただ、物語が終わり、待望した結末のすべてが砕けて以後も普通の日々が継続し、そうして生きなければならないことをおぼろに学んだだけだ。漫画に出てくる戦闘民族のように、瀕死から復活すれば戦闘力が格段に上昇する、なんて設定があればよかったのだけど。ひと並みに教訓を得て、それよりも遥かにぼくはぼくのままだ。

 

 けれども昨日と今日の境目の時刻に、ふいにジルベルトが戻って来た。ぼくの世界にとってのジルベルトに当たるひとだ。小説のなかのジルベルトは語り手の親友、サン・ルーと結婚することをぼくは知っている。でも、この世界はそんなふうに物語ではないと、すでにぼくは知っていて、知りながら、彼女の消息をふたたび得て再会したとき、性懲りもなく、けれどかつてよりは強く自由意志を駆動して、相も変わらず物語のようにこの先の日々を生きてみたいと願っている。