2018/07/15
神田で鈴木さんと対面した。
互いに学生時代から知っていたけれど直接会うのははじめてだった。彼はふたつ年下の、やわらかい雰囲気の青年だった。
小説の話を主にした。そのなかで、彼が言うには、世界をただ書くだけでも小説になる筈だと言っていた。世界の脈略のなさこそ驚くべきことだと。そして、「ぼくら」のように名もなきひとが2010年代に、生きていて、いずれは忘れられる、そののち後世のひとたちが読んだとき、過去の特別でない人間がひとり在り、そのように世界を見ていたこと、その感触、カーテンの色彩やスプーンの静けさ、手応え、そうしたものの肌理までをも感じられる、シンプルで力づよい小説が書きたいのだと、しずかに熱弁していた。
右の言葉は、聞いてから一日経過しているので、細部は異なっているかもしれない。しかしおおむねこのような内容だった。
いい言葉だったので、備忘録的にここに記しておく。
そのほか備忘。ソール・ライター(写真家)。志村貴子「放浪息子」における「悪」の無邪気さ(教師が自転車で事故を起こしたことを謝罪しつつ、翌日も乗り続け、だれもそれを咎めずに日常が流れてゆく)。