2018/10/21

 9月末日を締切として設定し、ぼくとほか友人ふたりで映画「リズと青い鳥」の二次創作をすることに決まり、先日無事提出を終えた。ここではその感想を改めて書いておく。蛮天丸「リズと青い鳥(二)」。

 

 https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10187409

 

 以前、綾瀬で直接会ったときにお互いの小説について語ったことは記憶に新しい。けれどもここで改めて読み返した上で語っておきたい。あのとき語ったこととは別の仕方で。

 

 動作に付随する形容詞、副詞がキャラクターの「らしさ」をかたちづくる、と自身でも言及しているあたり、きみ自身が小説を書くにあたり自らの武器について自覚的になってきたことが窺える。会議のあとメッセアプリでやり取りしながら、自販機で「ハズレ」を引く希美の意識の流れ、みぞれに会うにあたり少しいいワインを買うも失望するに至るまでの、希美がみぞれを待ち受け、そして重苦しく食事をする時間。空気の殊更の描写などひつようなく、メタ化することなく、「生活」を生きること。生き方そのものの中に、おのずと希美とみぞれの疎通しない空気が伝わる。それは映画で山田尚子が達成した手法そのものではないだろうか。この小説が、ほかのどの二次創作以上に忠実に、「リズと青い鳥」の二次創作であり、すなわち(二)である所以だ。

 

 みぞれ → 希美への重い愛だけが取り沙汰されて、ぼくも夜空さんもそれに倣う形になったけれど、きみの小説の画期的なことのひとつは、希美がみぞれに与える負荷についてそれとなく語っていることだ。それは先の食事シーンにおいても、希美の切ったシチューの肉がみぞれの口には大きいこと、そんな描写からも窺えるし、この小説を駆動させる発端でもある「みぞれが楽団を辞めた理由」、愛するひとに衰えた姿を見せたくない、という切実な動機もそうしたモチーフの反映である。そして希美はおとぎ話の続きに触れるまで、そのことに気づかないふりを続ける。

 九年、という明瞭に提示された時間ほどには、希美の中で時間は流れていなかったのかも知れない。高校に至る坂をゆっくり登り、部室の前で彼女はつい無い鍵をまさぐる。新山先生と対面したとき、彼女の目は、かつては存在し、いまは何も存在しない水槽を注視する。新山先生の聞かせてくる演奏に、「みぞれは凄い」と称賛ばかりを投げる希美は、まるでかつて自身では成り得なかった青い鳥の役を浚ったみぞれへの羨望を反復するかのようだ。そのようにして「愛ゆえの決断」、その「愛」の重さが提示されている。けれども時間は流れている。そうと受け容れるのは校舎の前で、優子の指揮するばらばらの音を聴きながら。何よりも、空を飛ぶちからを失った青い鳥の鳴き声を聴きながら。

 

 「私がリズで、あなたは青い鳥」、そんな役割の解釈を振り切って、どんな姿であってもリズは青い鳥に会いたいと思うとき、そして青い鳥の心情を想像するとき、希美は我知らず「本の気持ち」になったのかも知れない。時間による変化も含めた、他者との差異を丸ごと受け入れて、ハッピーアイスクリーム! ほどの一致も生まれない平仄の合わない二人きりの演奏をも愛おしく感じるとき、希美はようやっと、「音楽の才能」という瞬間的な輝きや「ひんやりして落ち着く鼓動」という即物的な快楽に限定されない、時間によって衰えた他者=みぞれを愛することが出来るようになる。それはまるで結婚時における宣誓のようだ。病めるときも、苦しいときも……。

  もっとも切実な「音楽」以外を愛されることが希美にとっての残酷であるように、「音楽」だけが愛されたことは、みぞれにとっての残酷だった。故にこの物語は希美のみぞれに対する「赦し」でもある。

 

 Re:Connect。融け合うようなJointではなく。きみとわたしの不通性を認識しながら、それでも寄り添うこと。青い鳥が帰ってくる為の条件はリズが迎えに行くことだった。

 こんなふうに丁寧に、極端ではない、しかし困難なことを丁寧な時間の流れの描写によって達成してしまったきみに、ぼくはふたたび脱帽する。