2018/08/12

 

 

 

蛮天丸 「それでも私は雪を見る」

( https://ncode.syosetu.com/n9802ew/ )

という小説を読んだ。URLは「小説家になろう」のサイトへのリンクとなっている。

 

 

 以下は私信。

 

 

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 ふいにきみがオリジナル小説を書き上げたというのでおどろいた。でも、それ以上におどろいたのは、この小説全体を貫いているきみの誠実さだった。倫理の規範とかいうのではなくって、たとえば文体がそうだ。ここに文体はあるし、でも文体、という言葉から連想する個性的であろうとするポーズのようなものがない。もちろんこの小説が、どんな先行作品の影響の上に成立しているか、ぼくは個人的にもきみを知っているので、そうして小説中にもそのオマージュは重要なモチーフになっているから、それはひしひしと伝わるんだけど。

文体における誠実さとは、物語にどこまでも忠実であろうとする文章の姿勢だ。「ぼく」こと高山の回想する、菊池との思い出にぴったりとしたトーン。まわりの音を消しながら降る雪のイメージ。文体と物語が一体となって些かも夾雑物がない。そういう誠実さに打たれた。

 

 それは菊池まどかと「ぼく」を繋ぐ一冊のテキストに通底しているのかもしれない。「ぼく」は、どうして菊池がこんな絵本のような本を読むのだろうと首を傾げる。もし菊池が大人ぶって難解な文学を読んでいたら、菊池とのささやかな出会いは存在しなかったかもしれない。平易で、それでいてどこまでも人の心に沁みとおる物語。画家が絵のなかに自身のすがたを書き入れるように、それはきみの小説に対する姿勢を刻んだもののように、ぼくには思えた。もちろん、菊池はどうやら本当にその「かえるくん」が好きらしい、というのはぼくが後に察するところで、だから菊池は質問攻めに遭って淡々と答える顔ではなく、好きなものを好きなだけ語り倒す顔を「ぼく」の前にだけ見せてくれる。

 これはぼく個人の記憶とも響き合っていて、明かすのは恥ずかしいのだけど、あの場面にはそういう秘密を共有する甘い瞬間を呼び覚ましてくれる力があった。いずれにせよ一冊のテキストが、ほとんど断絶した者同士の間を繋いでくれる。菊池と「ぼく」。それはあくまで「それ自体」なのだけど、作者と読者、或いは読み手と、読み手の奥底にふだんは沈み込んでいるむかしの夢や記憶の間柄の比喩のようにも読んでしまうことができる。

 最近、ネット記事で読んだラッパーのケンドリック・ラマ―の発言がずっと印象に残っている。「俺たちがやっていることは、9時〜17時のシフトにうんざりしながらも、毎朝渋々仕事に出かけていくヤツらのためにあるんだ。」

 そう、満員電車で揺られて出勤する大人(ぼくもその一人だ)にも、何某かの子ども時代は存在する。甘く、そして苦いものに変わってしまった夢のような時間を誰しも過ごし、或いは夢を見たことはあるだろう。

ぼくは、きみの物語を読みながら、ひとつひとつの場面が、そんなふうに奥底に沈んだ、あの夢のような様々な時間と反響し合うのを感じた。繰り返しになるけどそれを可能にしたのは、この小説に横たわる一途な誠実さなんだ。そしてだからこそ菊池とのすれ違いは痛ましいし、その別れる前日の場面の繊細さ、優しさは、ずっと心に残り続けるものになる。

 

この小説はそれにまた純粋に子どもの目で見た世界ではない。あくまで、かつて子どもの目を持っていた大人の回想だ。もう取り戻せない、それでいて生きる年月を重ねるたびに、その重さをひしひしと増すのを感じている、一人の人間の回想。「ぼくは綺麗な夢を見続ける、小さな大人になってしまった。」

 事の重大さ、というのはその瞬間以上に、過ぎ去ったあとに来る。「ぼくのせいなんだ。ぼくは菊池を離しちゃいけなかった」と心の中で叫ぶとき、もう彼女はいない。ただ彼女の言葉だけが残っている。そうして、短い時間のあいだに垣間見えていたはずの菊池のほんとうの内心の一端は絵本のしおりの書き置きを通じて語られる。

 そんなふうに、ひとは常に他者を取りこぼし続けるのだろうか。

 すこしだけ「ぼく」よりも大人だった菊池。その大人の世界に、彼女の不在と悲しみを通して足を踏み入れる「ぼく」。

 

 でも、同時にぼくは知っていた。離さないなんてこと、できるわけがないんだ。ぼくたちは自分たちの場所に帰らないといけない。どんなにぼくたちが繋がっていると思っていても。ぼくたちはいつか手を離さないといけない。

 

 それが、おとなになるっていうことなんだ。

 

 きみの小説をぼくは全部じゃないけど、それなりに長く読んできた読者の一人だ。自分の元いた世界にちゃんと帰ってくる、ということ。でも、そのとき常に帰る先にはそこで待つものがあった。「向こう側」へ行くことと、「戻ること」どちらの方向に傾くにせよ、そこに意味をもたらしてくれる何かがあったように思う。でもこの小説はそうじゃない。何故なら「ぼく」は、この離別を通じて世界の色を失ってしまっているのだから。愛する者の不在を常に後悔と共にひしひしと感じながら生きざるを得ない、ということ。それはなんて苦々しい帰還だろう。

 その苦々しさの味を、もう一度追体験しながら知るとき、ぼくもまた、この「ぼく」と同じように大人になってしまっているのだな、と寂しく感じる。同時に、物語に書き込まれた離別と不在の苦々しさが、この孤独を背負っているのが一人自分だけではないのだと知って、慰められもする。

 その手を離すべきではなかったと、ぼくもまた何度後悔したことだろう。どうにもならなかったな、と一方で思う。そんなどうにもならなさが、物語を通じて共鳴する媒介になるとき、苦い経験もすこしは救われるような気がする。それにこの小説のタイトルは「それでもぼくは雪を見る」ではなく、「それでも私は雪を見る」なのだ。電話ボックスの電話越しに、もう声を直に聴けないとしても同じ空のしたできみも雪を見て、そのひとときを思い出す日もあるのだろうと、想像し、信じること。すこしだけ大人になった菊池の目を想像する。痛ましい、でもこんな愛情の持ち越し方があってもいいんじゃないかと、読了後にそんなことを考えた。

 

 物語を語るきみの声、それはきみ固有のものだ。ぼくはそれをあらためて感じる。ぼくがこの先、どんなにぼくなりに小説や詩を書き続けたところで、ぼくはきみの声を呑み込んで代弁者になれるわけじゃない。その、きみ固有の声に、ぼくは刺激を受け、励まされ、時にはこうして慰められたりもする。この小説を読めてよかったと思う。

 いつか終わるだろう、ときみはむかし言っていた気がする。こんなふうにきみがきみの声を、渾身のちからを傾けて響かせる日を。でも、どうかその日々が一日でもながく終わらないでいてくれることを、ぼくは願っている。ぼくはもっともっと、この先も、ほかの誰でもない、きみの声が聴きたいんだよ。

 

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 じゃあ、またな。