2018/07/22

 

 先週(7月16日)、の深夜と朝方のあわいの時間で、「リリィ・シュシュのすべて」という映画を観た。監督は「スワロウテイル」の岩井俊二

あらすじからして嫌な映画だろうと予感していた。折しも前日の夕方、共に日高屋でビールを飲みながら、友人の春日さんにこの映画を観るつもりだと言ったら、笑いながら、最悪の映画で週末を潰すつもりなんですね、いいとおもいますよ、と言っていた。

 

 田園の真ん中で、中学生の市原隼人がCDプレイヤーを手に音楽に耳を傾けている画が印象に残る。その風景はこの国で、東京の外の至るところに点在している、彼らにとってはかぎりなく何もない、抜け出したくても抜け出せない土地を象徴している。市原演じる蓮見の、青く鬱屈した表情。あの年代の、まだ他人や世界どころか自分のことさえも不明瞭で、ただひたすら暗いものを抱え込むしかなかった、自覚と無自覚のあいだの漠然とした一時期をあますことなく表現している。

 そしてミクシィを思わせるようなファンサイトでの、特定音楽への、のめり込みが過ぎるほどの自意識と一体となったような書き込みでの、表現への躊躇いのなさも、この年代独自のものかもしれない。すくなくとも現代のSNSで、こうした感情を露出し、共有するのは、難しいような気がする。

 

 万引き、いじめ、強姦、援助交際

 当時の少年問題がここでは数多く取り上げられている。それは陳腐だともいえる。けれどそれもまた、あの映画に近い空気を実際に吸って、そこで呼吸するしか選択肢がなかった人間には、それもまた嫌になるくらいリアリティを感じてしまう(もちろん、そうでないひともいる筈で、それはそれで良いことだと個人的には思う。こんな薄暗く悲惨なものにリアルを感じた思春期に救いようなどないのだし)。

 大人になって観ると、しょーもないのだが、そのしょーもなさが、紛れもなくぼくらのあの時代の正体なのだった。

 

 一方では陳腐きわまりなく、しかし他にどうしようもない映像を、うつくしい音楽や映像技術によって、映画として成立させている。「リアル」も時が経てば記録になる。ここには局所的なリアリティが空気そのものに至るまで封じ込められている。ありがとう、とこの映画を撮ってくれた監督に伝えたい。ぼくらのしょーもない、ひとに明かすのも恥ずかしい一時期を掬いあげてくれて、どうもありがとう。でも、しんどい映画なので、次は数年後にまた観ようとおもいます多分。

 

 ただの灰も時間が経てばうつくしく映る。