2018/06/22

いま「新約聖書」を少しずつ読み進めている。

手に取るにあたり特段の理由があるのではない。いつかそのうち読もう、という気持ちがやわらかな枝先に実るつぼみのように膨らみ、そのうち何となく書店で、もののついでに聖書を購入し、そして実際に開いた。

 

聖書は文春新書版を買った。訳はもっとも一般的な共同訳だが佐藤優の解説が付いている。佐藤優はサラリーマン向けの新書で有名なひと程度の認識しかないが、何かの折に目にした彼の外交官時代の逸話がそれなりに面白かった記憶はある。神学部の出で、十九歳で洗礼を受けたことを本書で知った。キリスト教に縁のない一般向けという体裁で解説を書いており、思いのほかそれが理解を助けてくれる。もっとも信者からすれば首を傾げたくなるようなものかもしれないが。

 

有名なエピソードくらいは知っていたが、イエスや弟子の細かい言行については、多くのことをあたらしく知った。

印象に残ったひとつは「ゲッセマネで祈る」。

エスは弟子二人と共にゲッセマネというところに赴く。そこでイエスは祈りの現場に弟子を連れず、「そこに座っていなさい」と置き去りにしてひとりで祈る。その祈りの言葉。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

これは、それまでいちじくの木を自在に枯らし、つよく信じればこのようなことも行える、と弟子たちを驚愕させたひとの口から出たとは信じがたい。殆ど無力なふつうのひとのように祈っている。御心のままに、という一語に諦念と信仰の凄絶なせめぎあいを見出す。

 

あまりにじぶんの身にひきつけた読み方ではある。

聖書を読もうと最初にきざしたのは去年の夏、函館に旅行した折だった。道幅のひろい坂道を登ると幾つかの教会が集中して建っている。

前日につづいて金正恩氏の発射したミサイルが空のどこかを通過したその日の朝方、ひらかれて間もない無人の教会にそっと入った。まわりのどの教会よりも装飾を抑えた簡素で狭い礼拝堂だった。しずかに手を合わせる。切実な願いがあり、それが成就する気配もないまま経つ日々に疲れていた。そこで何を祈ったのだったか。とても個人的で、浅はかで、いとおしいこと。けれども来る現実のままを受け入れます、と目をあける寸前、虚空へ言い添えた。

 

別の教会で、イエスが処刑される場面を描いた絵図を眺めながら、聖書を近々読まなければならないような気がした。あれから一年になろうとしている。わたしの身の上、心境は当時と較べて変化した。良いこともあった。それ以上に悪いこともあった。ただ疲弊して、色々なものを投げ出したり、無力をみとめたりした。詳しくは書けない。

 

何をどう祈ろうと、願いのまま事はひとつも実らなかった。ただ、あの日うながされるように言い添えた祈りの尾をゲッセマネで祈るイエスから連想して、ほんのすこしだけ、彼の苦悩に充ちたことばに、やさしくいたわられたように思えた。