読書ノート――『失われた時を求めて -逃げさる女-』(マルセル・プルースト)

「アルベルチーヌさまはお発ちになりました!」という使用人フランソワーズの台詞にはじまる「逃げ去る女」と題された章は以後、約250頁に渡って出奔そして死後におけるアルベルチーヌの不在という主題を巡って展開される。この章は、延々と不在の女に対して刻々と様相を変える語り手の心情の、その時々の自己観察とその観察結果を一般化した理論が、ひたすら反復のように語られる為に、この小説を読み通すさいの艱難のひとつとして引き合いに出されることもある(わたしの知人は、この章を通過するのに一年近くもかけたそうだ)。

 

 アルベルチーヌが語り手のまえから姿を消したあと、語り手はまずアルベルチーヌを何とかして自分のもとに呼び戻そうとするが悉く失敗に終わる。一方で、語り手は物語序盤で登場したジルベルトと対した時のように、アルベルチーヌが不在でも自分が平然と生きてゆける日がくるであろうこと、彼女の存在がおのれのなかで風化する日を予感する。

 

 彼女が家を出てから四日のあいだ私ががまんしたのは、なるほど私がこう自分に言いきかせていたからだ、「どうせ時間の問題だ、週末までにはもどってくるさ。」しかしそれだからといって、私の心のはたすつとめ、私の肉体のはたす行為が、いままでとおなじであることに変わりはなかった、すなわち、彼女がいなくても生きてゆかねばならず、彼女がそこにいないと知っていても彼女の部屋のドアのまえを(そのドアをあける勇気はまだなかったが)通らねばならず、彼女におやすみをいわなくても寝なくてはならなかった。以上の事柄は、私の心が、どんなにやっかいでも逐一全部はたさねばならぬつとめてであり、もうアルベルチーヌに会わなくなってもやはりはたさねばならないのであった。

 

だが、そうは言いつつも、語り手はみずからのもとを去る前日のアルベルチーヌとの会話のなかに何か不審な点はなかったか、記憶の点検に没頭したり、或いは自分がいかにも戻って来て欲しそうな素振りを気取られることなく、アルベルチーヌの翻意をそれとなく促すような手紙の執筆に、あたまを悩ませる。そのうち、アルベルチーヌの不慮の事故死が知らされる。だがここでアルベルチーヌの存在が急速にフェードアウトするわけでは、ない。

 

アルベルチーヌの死が私の苦しみを解消することができるには、落馬による木との衝突がトゥーレーヌで彼女を死なせることだけでなく、私の内心でも彼女を死なせることが必要であったろう。ところがいまほど彼女が私の内心で生きていることはなかった。

 

 以後、語り手は何かにつけてアルベルチーヌを思い出し、苦しむことになる。夏の涼気は彼女とドライブしたことを、また語り手は回想を繰り返すなかではじめて自覚的に、さらにその記憶中の細部で、彼女が冷たい風よけに、とスカーフを巻いてくれた瞬間を、幸福な気持ちと共に思い出す。それらは以前の巻で、いずれ忘れ形見のような記憶と化すとは想像もされない、ただひとつの出来事として、語り手と読者のまえに記述されいる。一方でアルベルチーヌが語り手に隠れて同性愛に耽っていたことへの嫉妬が、アルベルチーヌの死後も語り手を焚きつけ、調査の手をのばす。そこでは過去の何気ない記憶が疑惑の対象となり、何気ない素行はあとから隠れた罪悪の痕跡として立ち現れる。

 この小説は、語り手と共に、かつて語り手と共有した記憶を、語り手が結びつけるようなやり方で、読者にもふたたび喚起することを迫る。アルベルチーヌへの連想は、序盤におけるジルベルト・スワンとの記憶へ、さらには冒頭の母からの接吻をもとめた場面へと、読み手の記憶を一瞬、導くだろう。しかもそれは語り手もまた、その連想に至る一瞬前までは、読者同様、忘れていたかのように。

 アルベルチーヌの死後も彼女への思慕を繰りかえしながらも、徐々にパターン化し、あるときから関心が薄れ、ジルベルトとの再会を機に無関心へと至る語り手の心情の推移に対して割かれた膨大な頁数は、まさに語り手が飽かずアルベルチーヌを思う時間そのものを、贅を尽くして描写している。想いびとへの思慕が強烈であればあるほど、一朝一夕で忘却できるわけではない、その風化までの時間を、これほどまで克明に追体験できる小説は、多くは存在しない。そしてまたひとは死後、すぐに死者になるわけでもない。語り手はアルベルチーヌのほかには殆ど関心を移さず、その生活描写も殆ど登場しないうちに、一年以上が経過したことを仄めかす文章が出現する。その没入感もまた、語り手がその身体においてではない、意識において生きた時間を記述することの証となっている。その長さで有名な『失われた時を求めて』ではあるが、無駄なことをして頁を水増ししているわけではないのだ。

 

 この小説も出来事の線的な時系列を有している。だが、眼前の関心に耽溺して、いつしか事の足場を忘れてしまいそうなほど、長いセンテンスで構成された入り組んだ描写により、読む側は物語としての、ものや出来事の単純な位置をではなく、いつしかものにまつわるイメージや名前、出来事の独立性が刻み付けられることになるだろう。それは、離れた事物のあいだの反響や結びつきを見出す、というこの小説の主題と密接に結びついている技法でもある。何より、そうして刻み付けられた記憶は一旦、頁を閉じたあと、時経てふたたび頁をひらいたとき、ふたたび溢れんばかりのイメージを取り戻す為のよすがになるにちがいない。ひとつの引き出しを開け、深く手を入れた途端、別の引き出しが開き……といった具合に。そこに足を運ぶかぎり、何度でもそのなかに連れ去られ、記憶同士の絡まる途方もない一世界の幸福を享受できるようになる、そのために、『失われた時を求めて』を読み通すという最初の困難を乗り越える価値はある。

 

 死者が生者の記憶のなかで鮮明に生き続けるかぎり、死者は死者として生き続ける。同様に、その膨大な小説世界に足を踏み入れるひとが絶えないかぎり、読み手のまえに何度でも輝くばかりの細部を、ジルベルトをアルベルチーヌを、サン=ルーを、シャルリュス男爵を、或いはコンブレ―を、バルベックを、今日生きているように甦らせてくれることだろう。そのかぎりにおいて『失われた時を求めて』は、文明あるひとの世が滅することのないかぎり、不死なのかもしれない。

 

(猶、井上究一郎 訳 ちくま文庫版に因った)