読書ノート――『精霊の息吹く丘』(モーリス・バレス)

 

 

 バレスは、尊敬しながら軽蔑する、という規則をもった遊戯を発明した。

 

 

 さて、先日『精霊の息吹く丘』なる小説を読んだ。作者はモーリス・バレス。1862年生まれのフランス人であり、そして小説は著者最晩年の本である。バレスについて語るとき、引き合いに出される話がふたつある。ひとつはフランスでの知名度に反して日本での認知度がかなり低いこと。ふたつ目は国葬の礼を以て埋葬されたこと。さらに、ジッドら20世紀初頭の小説家たちに絶大な影響を与えたことも、ここに付け加えてもいいかもしれない。

 

 

 モーリス・バレスの名を知ったのは、ジャン・コクトーを通じてだった。『モーリス・バレス訪問』と題された随筆風の作家論。

 

 

 

強い人間は、川幅が広いかどうか知らずに、跳んでしまう。それはばかだ、と誰でも考える。そのくせずっと後になって、彼はみとめられる。

 バレスはすでに何度も跳んだ人のいる川しか跳ばない。もっと誇張しよう。名高い跳躍を記念するために、橋が架けてある。彼は川を渡るために大いに思案し、人が跳んだ場所から橋を渡るといっていい。

 橋の真ん中で、彼は立止る。夢想する。彼は決心が、先人の栄誉ある決心と一致したことに感動し、自分で涙を流す始末である。彼がレオポルド・バイヤールを非難した態度がこれである。

 

 

 

 レオポルド・バイヤール――小説の翻訳ではレオポル・バヤール(以下、後者を採用)――こそは、『精霊の息吹く丘』の主人公にして、バヤール三兄弟の長男だ。この小説は、フランス中に散らばる今日で言うところのパワースポットの列挙にはじまる。その列の最後尾に名を連ねるローレーヌを舞台に、土地への賛歌が鷹揚な文体で語り始められ、そのなかで不運な出来事により、語り手の親戚でありながらその実態を掴むことの出来ないバヤール三兄弟について取材する決意にはじまり、そしてレオポル・バヤールが二十四歳でフラヴィニ―の司祭に命じられて以降、物語は動き出す。

 ローレーヌ人独特の執拗な熱心さと仕事の才、前時代的な宗教観はレオポルを頭とする三兄弟を、成功へとはやくも導く。宗教を語るに相応しい文体で、特に成功を象徴するものは募金額――金である。はやくもその声の内部で生じるひび割れ。

 バヤール兄弟の世俗的成功を妬んだとある司教は、みずからの権力を以てこの兄弟を取り巻く一団に募金の禁止を命令、かくてすべての宗教内部で金がものを言い、兄弟は一転没落する。時にバヤール兄弟50歳。300頁ほどある小説中、最初の約50頁内部での出来事だ。

 

 

 小説は映像ではない。ゆえに現実の時間間隔に沿うひつようはまったくない。或る一瞬を描写により永遠のごとく引き延ばすことも出来れば、紆余曲折を数行で片付けることも出来る。両方ともそれぞれ効果がある。

 

 

 レオポルはヴァントラスなる、教会内では悪名高い幻視者にして一種の山師のような男に薫陶を受ける。この小説中の幻視と興奮の描写はちょっと凄い。そして、その幻視の信憑性への判断よりは、幻視そのものの興奮に寄り添うように激烈に語る。

 レオポルはその薫陶により、ヴァントラスのもとからローレーヌへの帰郷後、みずからも幻視者のようになり、ひとつの教団を結成して、その勢力を拡大、地元に精神的のみならず経済的な利益をももたらして絶頂を究める。だがここでローレーヌの宗教事情に不安を抱いたローマ・カソリックの伝統的な宗教観を背骨に持つマリア協賛会が、あらたな司教を送り込む。

 かたやローレーヌの地から無限のインスピレーションを汲み上げる、地元でもっとも勢力を有する土着的教団の院長、かたや地元につての一切はないがひたすらおのれが正統であると知る、いわばグローバル教団の手先とのつばぜり合いが始まるのだ。

 

 

 カソリック側からの破門を機に、レオポルたちは追い詰められる。昨日までは信者であった者たちにも裏切られ、徹底的に迫害され、一時は愛するローレーヌを追放される。だがレオポルは遠隔の地にあってもローレーヌへ恋い焦がれるのをやめず、迫害を覚悟で帰郷、貧しい生活を余儀なくされつつ、自己の内部における神との対話、ヴィジョンの追及をやめない。

 

 

――もう二十年も前に、神がレオポル・バヤールを、私たちには知られていない理由でサタンに委ねるのを見た。二十年に亘って、この不幸な人は、この丘の上で、偶像どもから存続しているもの、キリストの神父たちによって純化されなかったものを、集め、再び活気づけようとして来た。

 

 

そして晩年は死者とも頻繁に交流し、その霊的な場面のリアリティが妖しさと渾然となり語られる。以下は、子供が、レオポルが深夜に死者と対話を交わすさまを覗き見る場面からの抜粋。

 

 

 声の調子はこれらの言葉に抗いがたい力を伝えていた。その子供は、老魔術師が言っていることも歌っていることも何も分からなかった。だが彼はこの音楽について一種の胸騒ぎを感じていた。それは、暗闇と孤独の中で幼い男の子の内面に形成される考えに対する暗い答えであった。狂気の老人は子供を夢と錯乱の死人たちの国へと連れ込んでいた。彼は突然、我々の心の底にいつまでも存続するこれらの捨てられた領域の魅力をその子供に明かしたのであった。我々の知的世界においては、今やもはや誰も意味も声も与えないこれらの暗い夢の魅力を。

 

 

 冒頭は、コクトーの同評論から引用した。彼の言う通りに、尊敬しながらの軽蔑が筆を進めるあいだにも貫かれていたとしたら、書き得なかったであろうような文章の幾つか、そして価値判断よりも三人称の語りを通じて個々の調子に沿うような、いわばフローベール的な文体の効果について、コクトーは言及していない。コクトーはふたつの目で眼前の世界を見るバレスを、同時代人としてするどく捉えている。だが、すぐれたテクストを書記する瞬間に訪れている複眼については、充分に語られていない。

 

 興味の惹き方、文体の選択と題材との距離が生み出す語り、そして場面々々が生み出す言葉の運動、ジェットコースター的な快楽までも、この小説はそなえている。だが何よりの核心は、かつて存在したもののいまは稀になった土地の声と、その声を聴き分ける稀人とを、語りのうちに再現し、失われゆくものの哀惜を拾いあげた詩心にある。なにがより文学的か、という不毛な議論に摩耗し、せいぜい同時代性と、同時代的な書記の技術に言葉の費やされる小説では決して至りつけないような領域だ。

 だが、このような小説が見つかるかぎり、小説に愛想を尽かすこともない、そのように思いたい。

 

 

精霊の息吹く丘

精霊の息吹く丘