2018/07/29

 物語についてここ数か月とりとめもなく考えることが多い。文学論上のいわゆるナラティブのような話ではない、どちらかと言えば卑近な因果の図式についてだ。いまの苦労がいずれ糧になる、のような。

 科学の法則でもない現実の因果について的確な回答なんて導出できるはずはないのだけど、どうしてか、ひとは奇妙な因果に囚われ、その奇妙な因果を証明するかのような出来事が起こったりする。それもまた偏見というもので、発生しえなかった物語は、目立たないままひっそりとあるがままに事が運んだのだろう。やがて現実という言葉に要約される。

 

 いわゆる地下鉄サリン事件でたまたま遅刻したおかげで事件に巻き込まれなかった逸話のようなものだ。その偶然は、生き延びたひとに何らかの認識をもたらしたかもしれない。自分は運がいい、とか、選ばれている、とか。一方で確かに死んだひともいる。彼らは不運なのだろうか。強運も不運も、ひとしく偏見に過ぎないとぼくは一応はそのように思う。にもかかわらず、ひとは過度に因果を見出すし、ぼくもまたそうした人々のうちのひとりだ。ぼくらは平然と運命という言葉を使う。そうした運命、因果の綾を物語と呼ぶ。日々様々なメディアを通じて消費する。

 

 そういう意味での運命に執着していた時期のじぶんは精神的にも経済的にも非常に危うい状況にあった。経済面にかんしては破滅寸前まで行った、といってもよいだろう。寸前、と書いてしまったのは、意想外な一手によりそれを免れたからだ。それはぼくの意識に何らかの認識をもたらしてしまった。日々分を守って生活するつつましい市民のリアリティには同調できないが、さりとて破滅し、路上生活などを営んでいる人間のリアリティには触れ得ないという程度のものを。破滅体験はひとを一挙に偉大にするのではない。ただストレスから救済され、別な日々の義務が生じただけだ。生きているそれだけだ。

 

 精神面に関してはもうひとつあるのだが、ひとりの、いまは去って帰ってこないひとにまつわる悔恨と再会への待望がそれをもたらした。かつて、どうしてぼくらは再会する筈だと、臆面もなく信じていられたのだろう。そのときぼくは物語を信じていたのだ。愛する者同士は別れてもいずれ巡り会うのだと。

 まいにち彼女のことを考え、詩に彼女の面影を刻もうと試行し、彼女が不在の世界に彼女の痕跡を探した。最後のひとつは完全な徒労だった。でもやめることが出来なかった。小説「失われた時を求めて」に、アルベルチーヌについてだが、二度の死という表現が登場する。一度目は実際に消え、二度目は忘却してしまうことだ。ぼくは絶対に二度目の死は喰いとめなければならない、という強迫観念の最中にあった。それが当時のぼくに可能な彼女への誠実だと思われたから。

 

 けれども或る日、雨だったが、きりきりと張り詰め強迫された精神のまま、労働を終え帰路を歩く道すがら、ふときざした。彼女のなかで、ぼくはとうに死んでいる、と。それもまた単純に、根拠のない、じぶんの限界をそのように他者に責を押し付け表現したに過ぎないものだった。が、そのとき擦過した認識のリアリティは確かで強かった。小説のアルベルチーヌは実際にその肉体が死んだが為に、二度目の死は彼女の記憶を反復する語り手のなかでのみ執り行われるほかないが、ぼくの世界でのアルベルチーヌは、おそらくだが生きており、ただ消息をもはや知ることが出来ない。すなわち行為可能な存在はぼくだけではないのだ。それでも再会はない。あれだけ弓を引くように、強くつよく待望した物語の結末が幾年を経ても到来しないこと。これが答えだった。そして、その結論を得て以来、ぼくのなかでも彼女の二度目の死が進行しつつある。もはやさしたる良心の咎めもなく。

 

 「失われた時を求めて」の語り手はその後、憧れのヴェネチアに赴きそこでジルベルトからの手紙を受け取る。ジルベルトは語り手の初恋の相手だ。でもぼくには赴くヴェネチアはない。ただ、物語が終わり、待望した結末のすべてが砕けて以後も普通の日々が継続し、そうして生きなければならないことをおぼろに学んだだけだ。漫画に出てくる戦闘民族のように、瀕死から復活すれば戦闘力が格段に上昇する、なんて設定があればよかったのだけど。ひと並みに教訓を得て、それよりも遥かにぼくはぼくのままだ。

 

 けれども昨日と今日の境目の時刻に、ふいにジルベルトが戻って来た。ぼくの世界にとってのジルベルトに当たるひとだ。小説のなかのジルベルトは語り手の親友、サン・ルーと結婚することをぼくは知っている。でも、この世界はそんなふうに物語ではないと、すでにぼくは知っていて、知りながら、彼女の消息をふたたび得て再会したとき、性懲りもなく、けれどかつてよりは強く自由意志を駆動して、相も変わらず物語のようにこの先の日々を生きてみたいと願っている。

2018/07/22

 

 先週(7月16日)、の深夜と朝方のあわいの時間で、「リリィ・シュシュのすべて」という映画を観た。監督は「スワロウテイル」の岩井俊二

あらすじからして嫌な映画だろうと予感していた。折しも前日の夕方、共に日高屋でビールを飲みながら、友人の春日さんにこの映画を観るつもりだと言ったら、笑いながら、最悪の映画で週末を潰すつもりなんですね、いいとおもいますよ、と言っていた。

 

 田園の真ん中で、中学生の市原隼人がCDプレイヤーを手に音楽に耳を傾けている画が印象に残る。その風景はこの国で、東京の外の至るところに点在している、彼らにとってはかぎりなく何もない、抜け出したくても抜け出せない土地を象徴している。市原演じる蓮見の、青く鬱屈した表情。あの年代の、まだ他人や世界どころか自分のことさえも不明瞭で、ただひたすら暗いものを抱え込むしかなかった、自覚と無自覚のあいだの漠然とした一時期をあますことなく表現している。

 そしてミクシィを思わせるようなファンサイトでの、特定音楽への、のめり込みが過ぎるほどの自意識と一体となったような書き込みでの、表現への躊躇いのなさも、この年代独自のものかもしれない。すくなくとも現代のSNSで、こうした感情を露出し、共有するのは、難しいような気がする。

 

 万引き、いじめ、強姦、援助交際

 当時の少年問題がここでは数多く取り上げられている。それは陳腐だともいえる。けれどそれもまた、あの映画に近い空気を実際に吸って、そこで呼吸するしか選択肢がなかった人間には、それもまた嫌になるくらいリアリティを感じてしまう(もちろん、そうでないひともいる筈で、それはそれで良いことだと個人的には思う。こんな薄暗く悲惨なものにリアルを感じた思春期に救いようなどないのだし)。

 大人になって観ると、しょーもないのだが、そのしょーもなさが、紛れもなくぼくらのあの時代の正体なのだった。

 

 一方では陳腐きわまりなく、しかし他にどうしようもない映像を、うつくしい音楽や映像技術によって、映画として成立させている。「リアル」も時が経てば記録になる。ここには局所的なリアリティが空気そのものに至るまで封じ込められている。ありがとう、とこの映画を撮ってくれた監督に伝えたい。ぼくらのしょーもない、ひとに明かすのも恥ずかしい一時期を掬いあげてくれて、どうもありがとう。でも、しんどい映画なので、次は数年後にまた観ようとおもいます多分。

 

 ただの灰も時間が経てばうつくしく映る。

2018/07/15

神田で鈴木さんと対面した。

互いに学生時代から知っていたけれど直接会うのははじめてだった。彼はふたつ年下の、やわらかい雰囲気の青年だった。

 

 小説の話を主にした。そのなかで、彼が言うには、世界をただ書くだけでも小説になる筈だと言っていた。世界の脈略のなさこそ驚くべきことだと。そして、「ぼくら」のように名もなきひとが2010年代に、生きていて、いずれは忘れられる、そののち後世のひとたちが読んだとき、過去の特別でない人間がひとり在り、そのように世界を見ていたこと、その感触、カーテンの色彩やスプーンの静けさ、手応え、そうしたものの肌理までをも感じられる、シンプルで力づよい小説が書きたいのだと、しずかに熱弁していた。

 

 右の言葉は、聞いてから一日経過しているので、細部は異なっているかもしれない。しかしおおむねこのような内容だった。

 いい言葉だったので、備忘録的にここに記しておく。

 

 そのほか備忘。ソール・ライター(写真家)。志村貴子放浪息子」における「悪」の無邪気さ(教師が自転車で事故を起こしたことを謝罪しつつ、翌日も乗り続け、だれもそれを咎めずに日常が流れてゆく)。

2018/07/07

 

 三日前の夕方から病で臥せっていた。

 風の流れない台所で半日冷蔵庫にしまい忘れた牛乳を、異臭がしないから、と飲んだのが、いわば食あたりが直接の原因だ。そこに衰弱からか風邪もひいた。しきりに腹痛に襲われ、茶色い水分をないのに絞り出し、頭痛と高熱に耐えるというのは、孤独でしんどい行だと言わねばならない。もっとも、はじめの二日間はほとんど昏倒していたので、意識のあった時間もずっと短い。

 病のいちばんの峠は二日前の晩で、夏日で窓を閉め切り、もちろん冷房もつけてないのに分厚い布団に包まったまま、腰からせり上がる悪寒でがたがた震えが止まらなくなったときはほんとうにつらかった。治りつつあるいまとなっては自分でも大げさに思うが、当時はこのまま死ぬという想像まで頭をよぎった。余談だがぼくは夏でも冬の布団を出したままの人間だ。健康なときならば、冷房の効いた部屋で厚い布団に包まるのが好きなのだ。

 死ぬかもしれない、という時分に、その気持ちを行分けで詩の風に構想した。高い場所から落下して間一髪で助かる夢から目覚めた翌朝に即興で、そのときを思い起こしながら詩を作ったが、ここに掲載するような出来ではない。

 

 それはそうとひとは病で死にうる、というのは当然といえば当然だけど、実際に身に迫られると感慨深いものがある。刹那的な生き方というのは若く、無意識にでも将来の貯金をアテにできるからこそ可能な所業だというのが、おぼろげながら分かってくる。

 死を前に悟りが開けた訳ではない。

 ただ、じぶんが巻き込まれ、どうやら当分逃れることの出来そうにない社会との折り合い方、一方でじぶんより長生きしている人々がいかに社会と折り合って来たかを知ること、そしてより有限性を自覚したうえでの詩や小説との向き合い方を慎重に再考するひつようはあるだろうとおもう。こと社会に関しては内心だけの敵視をしているだけでは、もはや身体精神の両面においてすり潰されるのは時間の問題みたいだ。

 

 生きていると様々な邪念が付着するので、いま澄んだ気持ちでいても生活に追い詰められるうちに余裕がなくなり奇妙なこだわりや情念の偏向がいずれ生じてしまうのは残念だが、なるべく正気を保ったまま、この生を終わりへと持ってゆけたらいい。それにしても病死はそれだけなら非常に魅力的だったが。

 

 病床では村上春樹のインタビュー集を読んでいた。話は地下鉄サリン事件を取材した『アフターダーク』に幾度も及び、当然ながら麻原彰晃の名も頻りに登場した。阪神淡路大震災と並び、旧来の秩序の崩壊を象徴する地下鉄サリン事件、そのグルとして。

 その麻原が死んだ。

 7月6日に、リークによる事実上の事前予告という前代未聞の仕方で、彼をはじめ7名の事件首謀者がいっせいに絞首刑に処せられた。

 

 その日、その翌日と、西側一帯がかつてない雨と洪水に見舞われた、平成最後の夏。

ぼくはようやく微温いポカリスウェットやお粥以外のものを、口にできるまでに回復した。(そういえば今日は七夕だ。いま気づいた)

2018/06/22

いま「新約聖書」を少しずつ読み進めている。

手に取るにあたり特段の理由があるのではない。いつかそのうち読もう、という気持ちがやわらかな枝先に実るつぼみのように膨らみ、そのうち何となく書店で、もののついでに聖書を購入し、そして実際に開いた。

 

聖書は文春新書版を買った。訳はもっとも一般的な共同訳だが佐藤優の解説が付いている。佐藤優はサラリーマン向けの新書で有名なひと程度の認識しかないが、何かの折に目にした彼の外交官時代の逸話がそれなりに面白かった記憶はある。神学部の出で、十九歳で洗礼を受けたことを本書で知った。キリスト教に縁のない一般向けという体裁で解説を書いており、思いのほかそれが理解を助けてくれる。もっとも信者からすれば首を傾げたくなるようなものかもしれないが。

 

有名なエピソードくらいは知っていたが、イエスや弟子の細かい言行については、多くのことをあたらしく知った。

印象に残ったひとつは「ゲッセマネで祈る」。

エスは弟子二人と共にゲッセマネというところに赴く。そこでイエスは祈りの現場に弟子を連れず、「そこに座っていなさい」と置き去りにしてひとりで祈る。その祈りの言葉。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

これは、それまでいちじくの木を自在に枯らし、つよく信じればこのようなことも行える、と弟子たちを驚愕させたひとの口から出たとは信じがたい。殆ど無力なふつうのひとのように祈っている。御心のままに、という一語に諦念と信仰の凄絶なせめぎあいを見出す。

 

あまりにじぶんの身にひきつけた読み方ではある。

聖書を読もうと最初にきざしたのは去年の夏、函館に旅行した折だった。道幅のひろい坂道を登ると幾つかの教会が集中して建っている。

前日につづいて金正恩氏の発射したミサイルが空のどこかを通過したその日の朝方、ひらかれて間もない無人の教会にそっと入った。まわりのどの教会よりも装飾を抑えた簡素で狭い礼拝堂だった。しずかに手を合わせる。切実な願いがあり、それが成就する気配もないまま経つ日々に疲れていた。そこで何を祈ったのだったか。とても個人的で、浅はかで、いとおしいこと。けれども来る現実のままを受け入れます、と目をあける寸前、虚空へ言い添えた。

 

別の教会で、イエスが処刑される場面を描いた絵図を眺めながら、聖書を近々読まなければならないような気がした。あれから一年になろうとしている。わたしの身の上、心境は当時と較べて変化した。良いこともあった。それ以上に悪いこともあった。ただ疲弊して、色々なものを投げ出したり、無力をみとめたりした。詳しくは書けない。

 

何をどう祈ろうと、願いのまま事はひとつも実らなかった。ただ、あの日うながされるように言い添えた祈りの尾をゲッセマネで祈るイエスから連想して、ほんのすこしだけ、彼の苦悩に充ちたことばに、やさしくいたわられたように思えた。

2018/01/01

 何度となく世界が終わる、と呟いた。世界の終わりを信じた。世界の終わりを、続くこの世界で飽くことなく歌うロックバンドみたいに。世界は終わっていない。

 年の明けを跨いだ掃除を終えたあと、ベランダに出て煙草を吸いながら、風の音が聴こえる静かな夜を見ていた。かすかに洩れる光が、隣人もまだ起きていることを伝えていて、壁やベランダ越しに時々聞こえてくる割れ鐘を叩いたように濁った声は、きっとぼくがこの先、詩や小説の傑作を書いても彼が読むことはたぶん永久にないだろうことを分からせる。

 ぼくが安易に想像するような「世界の終わり」なんてない。

 

 2017年を顧みて、夏がもっとも輝かしい時代だった。友人たちの住む地を肌でたしかめることを口実に北海道、静岡へと足を運んで、それぞれとてもたのしい時間を過ごした。ありがとう。いつ死んでもいいように、と巡礼のつもりで出発したのに、帰ってからまた行きたい、彼らに会いたいと思ってしまった。だからYくんへ。そのうち冬の北国へ行く。ぼくがただ広い道路におどろいているとき、きみが除雪車が通るからね、と言った瞬間に現前した、降雪の世界を生活するひととのリアリティの差を確かめる為に。そして降雪した朝のしずけさをこの耳で聴きたいから。

 

 以下は2017年に読んだ本のうち良かったもの。再読含む。順番は適当。

 

後宮小説酒見賢一 新潮文庫

詩論のバリエーション(荒川洋治 學藝書林

精霊の息吹く丘(モーリス・バレス 中央公論新社

失われた時を求めて 9巻(マルセル・プルースト ちくま文庫

アメリカン・サイコブレット・イーストン・エリス 角川文庫)

ブギー・ポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」(上遠野浩平 電撃文庫

ひかりの途上で(峯澤典子 七月堂)

虐殺器官伊藤計劃 ハヤカワ文庫)

灰と家(鈴木一平 いぬのせなか座)

天使(佐藤亜紀 文春文庫)

 

 

 読書は読むペースそのものが少し早くなった気がする。尤も、難解な厚い哲学書を手に取るような根気はなくなってしまったけれど。

 

 音楽。後半にゆくにつれてあまり熱心に聴かなくなってしまったが(Syrup16gだけリピートしていた時期が長すぎた)、良かったアルバムを五つ挙げる。

 

ショパン&リスト:ピアノ協奏曲第1番(クラウディオ・アバド(指揮) マルタ・アルゲリッチ(ピアノ))

ハイファイ新書(相対性理論

delaidback(Syrup16g

All The People:Blur Live At Hyde Park(Blur)

新しき日本語ロックの道と光(サンボマスター

 

 

 映画。割とひつように迫られて、とか話題なので、とかの理由で漫然と観たり、途中で観るのが嫌になったりして映画をたのしむ才能がないことを何度も痛感したが、面白かったものは文句なく面白かった。五つ挙げる。

 

さよなら子供たちルイ・マル

ザ・レイドギャレス・エヴァンス

宇宙戦争スティーヴン・スピルバーグ

ダンケルククリストファー・ノーラン

聲の形 -inner silence- (山田尚子

 

 

 創作。去年の夏ごろから取材を重ねて準備していた、響け! ユーフォニアムの二次創作を書くことを通じて、課題を排出しながらも、かつてよりも良い手応えを感じて散文のリハビリが出来た。悪くない、と思う。音楽にかんしては殆ど無知同然の位置から、プレイヤー達に取材をしたり文献を読んだりして、音楽を奏でる側の世界にすこしでも肉薄できれば、と希望しながら書いた。

 

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8420402 (リンク先はPixivのページ)

 

詩にかんしては今年の三月に「礼儀」という詩を書けたことがおおきい。以後の、自分のなかで推敲するに値すると判断する際の、詩行の運びのリズム、緊迫感はこの詩の以前以後でかなり分かれていると言える。

 

https://www.dropbox.com/s/kwzsr57b9x6zwbx/%E7%A4%BC%E5%84%80.pdf?dl=0 (Dropbox)

 

 

 2018年はもっと言葉を無理にでも量産して、嫌でも質の向上を目指したい。当面の目標は詩誌に投稿して入選することになる。何だかテストで高得点獲って高偏差値を取る、みたいな目標だが。

 散文のほうは現在構想中の小説を書いて賞に提出すること、これ以外にない。

 

 

 多くの希望や願いや楽観が、まいにち陶器のようにあっけなく砕かれている世界で、ぼくはまだ実りへの希望を捨てきれないでいる。

 

 

 

ショパン:P協奏曲第1番

ショパン:P協奏曲第1番

 

 

読書ノート――『失われた時を求めて -逃げさる女-』(マルセル・プルースト)

「アルベルチーヌさまはお発ちになりました!」という使用人フランソワーズの台詞にはじまる「逃げ去る女」と題された章は以後、約250頁に渡って出奔そして死後におけるアルベルチーヌの不在という主題を巡って展開される。この章は、延々と不在の女に対して刻々と様相を変える語り手の心情の、その時々の自己観察とその観察結果を一般化した理論が、ひたすら反復のように語られる為に、この小説を読み通すさいの艱難のひとつとして引き合いに出されることもある(わたしの知人は、この章を通過するのに一年近くもかけたそうだ)。

 

 アルベルチーヌが語り手のまえから姿を消したあと、語り手はまずアルベルチーヌを何とかして自分のもとに呼び戻そうとするが悉く失敗に終わる。一方で、語り手は物語序盤で登場したジルベルトと対した時のように、アルベルチーヌが不在でも自分が平然と生きてゆける日がくるであろうこと、彼女の存在がおのれのなかで風化する日を予感する。

 

 彼女が家を出てから四日のあいだ私ががまんしたのは、なるほど私がこう自分に言いきかせていたからだ、「どうせ時間の問題だ、週末までにはもどってくるさ。」しかしそれだからといって、私の心のはたすつとめ、私の肉体のはたす行為が、いままでとおなじであることに変わりはなかった、すなわち、彼女がいなくても生きてゆかねばならず、彼女がそこにいないと知っていても彼女の部屋のドアのまえを(そのドアをあける勇気はまだなかったが)通らねばならず、彼女におやすみをいわなくても寝なくてはならなかった。以上の事柄は、私の心が、どんなにやっかいでも逐一全部はたさねばならぬつとめてであり、もうアルベルチーヌに会わなくなってもやはりはたさねばならないのであった。

 

だが、そうは言いつつも、語り手はみずからのもとを去る前日のアルベルチーヌとの会話のなかに何か不審な点はなかったか、記憶の点検に没頭したり、或いは自分がいかにも戻って来て欲しそうな素振りを気取られることなく、アルベルチーヌの翻意をそれとなく促すような手紙の執筆に、あたまを悩ませる。そのうち、アルベルチーヌの不慮の事故死が知らされる。だがここでアルベルチーヌの存在が急速にフェードアウトするわけでは、ない。

 

アルベルチーヌの死が私の苦しみを解消することができるには、落馬による木との衝突がトゥーレーヌで彼女を死なせることだけでなく、私の内心でも彼女を死なせることが必要であったろう。ところがいまほど彼女が私の内心で生きていることはなかった。

 

 以後、語り手は何かにつけてアルベルチーヌを思い出し、苦しむことになる。夏の涼気は彼女とドライブしたことを、また語り手は回想を繰り返すなかではじめて自覚的に、さらにその記憶中の細部で、彼女が冷たい風よけに、とスカーフを巻いてくれた瞬間を、幸福な気持ちと共に思い出す。それらは以前の巻で、いずれ忘れ形見のような記憶と化すとは想像もされない、ただひとつの出来事として、語り手と読者のまえに記述されいる。一方でアルベルチーヌが語り手に隠れて同性愛に耽っていたことへの嫉妬が、アルベルチーヌの死後も語り手を焚きつけ、調査の手をのばす。そこでは過去の何気ない記憶が疑惑の対象となり、何気ない素行はあとから隠れた罪悪の痕跡として立ち現れる。

 この小説は、語り手と共に、かつて語り手と共有した記憶を、語り手が結びつけるようなやり方で、読者にもふたたび喚起することを迫る。アルベルチーヌへの連想は、序盤におけるジルベルト・スワンとの記憶へ、さらには冒頭の母からの接吻をもとめた場面へと、読み手の記憶を一瞬、導くだろう。しかもそれは語り手もまた、その連想に至る一瞬前までは、読者同様、忘れていたかのように。

 アルベルチーヌの死後も彼女への思慕を繰りかえしながらも、徐々にパターン化し、あるときから関心が薄れ、ジルベルトとの再会を機に無関心へと至る語り手の心情の推移に対して割かれた膨大な頁数は、まさに語り手が飽かずアルベルチーヌを思う時間そのものを、贅を尽くして描写している。想いびとへの思慕が強烈であればあるほど、一朝一夕で忘却できるわけではない、その風化までの時間を、これほどまで克明に追体験できる小説は、多くは存在しない。そしてまたひとは死後、すぐに死者になるわけでもない。語り手はアルベルチーヌのほかには殆ど関心を移さず、その生活描写も殆ど登場しないうちに、一年以上が経過したことを仄めかす文章が出現する。その没入感もまた、語り手がその身体においてではない、意識において生きた時間を記述することの証となっている。その長さで有名な『失われた時を求めて』ではあるが、無駄なことをして頁を水増ししているわけではないのだ。

 

 この小説も出来事の線的な時系列を有している。だが、眼前の関心に耽溺して、いつしか事の足場を忘れてしまいそうなほど、長いセンテンスで構成された入り組んだ描写により、読む側は物語としての、ものや出来事の単純な位置をではなく、いつしかものにまつわるイメージや名前、出来事の独立性が刻み付けられることになるだろう。それは、離れた事物のあいだの反響や結びつきを見出す、というこの小説の主題と密接に結びついている技法でもある。何より、そうして刻み付けられた記憶は一旦、頁を閉じたあと、時経てふたたび頁をひらいたとき、ふたたび溢れんばかりのイメージを取り戻す為のよすがになるにちがいない。ひとつの引き出しを開け、深く手を入れた途端、別の引き出しが開き……といった具合に。そこに足を運ぶかぎり、何度でもそのなかに連れ去られ、記憶同士の絡まる途方もない一世界の幸福を享受できるようになる、そのために、『失われた時を求めて』を読み通すという最初の困難を乗り越える価値はある。

 

 死者が生者の記憶のなかで鮮明に生き続けるかぎり、死者は死者として生き続ける。同様に、その膨大な小説世界に足を踏み入れるひとが絶えないかぎり、読み手のまえに何度でも輝くばかりの細部を、ジルベルトをアルベルチーヌを、サン=ルーを、シャルリュス男爵を、或いはコンブレ―を、バルベックを、今日生きているように甦らせてくれることだろう。そのかぎりにおいて『失われた時を求めて』は、文明あるひとの世が滅することのないかぎり、不死なのかもしれない。

 

(猶、井上究一郎 訳 ちくま文庫版に因った)