2018/10/21

 9月末日を締切として設定し、ぼくとほか友人ふたりで映画「リズと青い鳥」の二次創作をすることに決まり、先日無事提出を終えた。ここではその感想を改めて書いておく。蛮天丸「リズと青い鳥(二)」。

 

 https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10187409

 

 以前、綾瀬で直接会ったときにお互いの小説について語ったことは記憶に新しい。けれどもここで改めて読み返した上で語っておきたい。あのとき語ったこととは別の仕方で。

 

 動作に付随する形容詞、副詞がキャラクターの「らしさ」をかたちづくる、と自身でも言及しているあたり、きみ自身が小説を書くにあたり自らの武器について自覚的になってきたことが窺える。会議のあとメッセアプリでやり取りしながら、自販機で「ハズレ」を引く希美の意識の流れ、みぞれに会うにあたり少しいいワインを買うも失望するに至るまでの、希美がみぞれを待ち受け、そして重苦しく食事をする時間。空気の殊更の描写などひつようなく、メタ化することなく、「生活」を生きること。生き方そのものの中に、おのずと希美とみぞれの疎通しない空気が伝わる。それは映画で山田尚子が達成した手法そのものではないだろうか。この小説が、ほかのどの二次創作以上に忠実に、「リズと青い鳥」の二次創作であり、すなわち(二)である所以だ。

 

 みぞれ → 希美への重い愛だけが取り沙汰されて、ぼくも夜空さんもそれに倣う形になったけれど、きみの小説の画期的なことのひとつは、希美がみぞれに与える負荷についてそれとなく語っていることだ。それは先の食事シーンにおいても、希美の切ったシチューの肉がみぞれの口には大きいこと、そんな描写からも窺えるし、この小説を駆動させる発端でもある「みぞれが楽団を辞めた理由」、愛するひとに衰えた姿を見せたくない、という切実な動機もそうしたモチーフの反映である。そして希美はおとぎ話の続きに触れるまで、そのことに気づかないふりを続ける。

 九年、という明瞭に提示された時間ほどには、希美の中で時間は流れていなかったのかも知れない。高校に至る坂をゆっくり登り、部室の前で彼女はつい無い鍵をまさぐる。新山先生と対面したとき、彼女の目は、かつては存在し、いまは何も存在しない水槽を注視する。新山先生の聞かせてくる演奏に、「みぞれは凄い」と称賛ばかりを投げる希美は、まるでかつて自身では成り得なかった青い鳥の役を浚ったみぞれへの羨望を反復するかのようだ。そのようにして「愛ゆえの決断」、その「愛」の重さが提示されている。けれども時間は流れている。そうと受け容れるのは校舎の前で、優子の指揮するばらばらの音を聴きながら。何よりも、空を飛ぶちからを失った青い鳥の鳴き声を聴きながら。

 

 「私がリズで、あなたは青い鳥」、そんな役割の解釈を振り切って、どんな姿であってもリズは青い鳥に会いたいと思うとき、そして青い鳥の心情を想像するとき、希美は我知らず「本の気持ち」になったのかも知れない。時間による変化も含めた、他者との差異を丸ごと受け入れて、ハッピーアイスクリーム! ほどの一致も生まれない平仄の合わない二人きりの演奏をも愛おしく感じるとき、希美はようやっと、「音楽の才能」という瞬間的な輝きや「ひんやりして落ち着く鼓動」という即物的な快楽に限定されない、時間によって衰えた他者=みぞれを愛することが出来るようになる。それはまるで結婚時における宣誓のようだ。病めるときも、苦しいときも……。

  もっとも切実な「音楽」以外を愛されることが希美にとっての残酷であるように、「音楽」だけが愛されたことは、みぞれにとっての残酷だった。故にこの物語は希美のみぞれに対する「赦し」でもある。

 

 Re:Connect。融け合うようなJointではなく。きみとわたしの不通性を認識しながら、それでも寄り添うこと。青い鳥が帰ってくる為の条件はリズが迎えに行くことだった。

 こんなふうに丁寧に、極端ではない、しかし困難なことを丁寧な時間の流れの描写によって達成してしまったきみに、ぼくはふたたび脱帽する。

2018/10/12

 9月末日を締切として設定し、ぼくとほか友人ふたりで映画「リズと青い鳥」の二次創作をすることに決まり、先日無事提出を終えた。ここではその感想を改めて書いておく。まずは早瀬凛「美しく燃える蒼」。

 

 https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10187384

 

 ふたたび読み返して、その旋律の純粋さにおどろいた。音楽の話であり、かつきみの文章の話だ。

「美しく燃える蒼」が或る曲のもじりであることはかねてよりきみから聞いていたけれど、にも拘わらず、この物語にこれ以上の表題はないと思える。蒼――それはきみが頻りに書こうと欲している「青春」、この物語の語り手、鎧塚みぞれの「青春」、或いは傘木希美が諦念と共に別れを告げた「青春」のことだ。

 

 それにしても、変わらないで欲しいと願いつつ、その終わりを予感しているみぞれの純粋な語りのなかで、最愛のひとである希美は中盤、殆ど異物のように作用している。それは南中みんなで演奏したいと誰よりも努力を傾ける優子、一歩引いたところで他の三人を見守り、「このままでいいんじゃない?」とみぞれに「持続」を諭す夏紀とも異なり、みぞれに嫉妬や羨望を露悪的にうちあけつつ、またおのれに苦悩している。映画の中で、一度は引き受けたリズの役を重荷に感じている彼女。けれども一方で、簡単にリズの役割を引き受けて万能の善人として振る舞えないと零すからこそ、山田尚子が一度は強引に「joit」させた関係をふたたび問いに伏しているのも確かだ。

「みぞれは変わったよ」

 その言葉に翻弄されつつも周囲に後押しされて、揺らぎつつも希美を信じると決心しているみぞれ。あなたがわたしの全部であると、どんな残酷な言葉や事実を突きつけられようと貫こうとするみぞれの、夾雑物のない、けれども言葉を覚えて間もない幼子のような口語には、まだ事態を客観化できない、事の内部をただひたむきに生きているひとのリアリティが宿っている。青春とはそういうものではないだろうか。カタログのように記号を組み合わせるのではなく。しかもそれは、確実に予感された終わりへ向けて、いっそうの輝きを増す。どこまでも等身大の語彙。

 

 コンクール終了後、「わたしがいなくても大丈夫だったじゃん」etcと、みぞれの変化について言及しながら、誰よりもその変化を、悲しみとして噛み締めているのは、希美だと知る。「美しく終わりたい」と語る彼女は、そんなふうに「終わり」を仮構しなければならない自分の無力に忸怩たる思いを抱えつつ、あくまで気丈に振る舞おうとする。それも感情を剥きだして希美への愛を語るみぞれとは対照的だ。けれども、みぞれもまた、「半分うそで半分ほんと」と、希美のやさしさに言及するとき、既に物事の表裏や綾に勘付きつつあって、夢の終わりが予感される。

 この物語で、優子、夏紀、希美の三人の口から殆ど共通して語られるのは、みぞれの「変化」であり、「成長」だ。誰よりもそれを望まない人物が最善を尽くすが故に、最愛のひととの距離を拡げてしまう。そんな悲しい構造のなかに、それでいてふわふわ夢うつつの語りのなかに、美しく燃える蒼の終わりは託されていた。

 

 ふたりの未来を願っていた。ひとりはきみのこころのなかに残っていられたらいいな、と背を向け去る。そのとき青春も去った。みぞれにとっての「全部」であったひとは消えて、けれども明日はやってくる。

 ここで物語が終わることは正しい。なぜなら青春そのものみたいなみぞれの意識も破れて、きっとこの先は回顧の語り――非-青春の語りにならざるを得ないだろうから。

 

 だが願わくば消えてゆく青春の記録であるこの物語が、きみにとっての「再生」であらんことを。どうか書きつづけてくれ。

リズと青い鳥」を題材に、蛮天丸さん、ぼくときみの三人で同期的に二次創作を行うこのささやかな試みを、終わりの象徴や過去の記念とするには、ぼくらはまだ若いのだから。ぼくらのあいだでも最も先鋭に世界を憎悪していた、そうして誰よりも優しかった、きみの蒼い火がまだ尽きていないと、ぼくは信じている。

2018/09/25

 9月22日。

 愛知県へと向かった。Mに約六年ぶりに会う為に。その心情も光景もかつての偶の空想とは似ても似つかなかった。現実が夢や空想に似ないことには慣れている。その大抵は手酷い。それでも生きていられるのは際の際で他者の気遣いや親切に辛うじて支えられているからだろう。

 そうして僕は酷い恩知らずだ。

 

 記憶は充分に記憶と化していないし詳述しない。

 言葉少なに白山公園をそぞろ歩きながら、公園と街路を隔てる木々が夕陽に燃やされていた光景と、その前に美術館で観たゴッホの、あの旋回する白い太陽とが既に記憶の中で混同されてひとつの錯誤が出来上がりつつあった。僕が色について月並みな感想を言うとMは色盲気味の友人の話をして、会話って難しいですよね、と結んだ。

 

 終電を逃したので(あまり帰りたくなかったから)、ネカフェに宿泊した。早朝、錯乱したような女に執拗に呼び掛けられたが無視して歩き、駅の周りを犬のように彷徨した。街路は広く隠れるところのない街だとおもった。犬が嫌いという話も、そういえば公園を歩いているときMに喋った。

 

 在来線で静岡を経由して東京へ帰った。

 弁天島で、車窓からホテルの建物が見えたから、温泉にでも入れるだろうと立ち寄って間近で見るとすべて廃業して海沿いに建っている多くが廃墟だった。ひとは誰かと車や自転車で来て、海釣りやサイクリングに興じていた。竿掛けが一定の間隔で浜辺に刺さっている。それを墓標などと形容できない。気温は夏みたいだったが秋の光は淡く空と海を白昼夢のように煌めかせていた。女子高生が主役の低予算の邦画が好みそうな風景。そんな映画も最近観た。

 

 熱海にも立ち寄ったあと、黒々とした東海道線の車窓を眺めながら、前日を受け入れるには帰路の半日という時間が必要だったと感じた。前日には、うつくしい時間もそうでないものもあった。彼女は猶更だっただろう。飲み過ぎて、嘔吐して(或いはただ悲しくなって)目を赤くして出て来たあと、大丈夫、と足早に僕と共に歩こうとする彼女を家に帰した一瞬だけ、僕はまともで正常な言葉を発したような気がする。(ほかは大抵焦点が合っていなかった。そんな言葉しか吐けない。)

 

 後日、夾雑物が洗い落とされて、美しい風景と彼女の優しさだけが残って欲しいと思う。それまではすべてを受け入れる。それは去年の夏、北国の教会で異国の神さまの前で祈ったときの恩恵だ。祈りとはただ己の不如意を受容すること。ほかに意味はない。どこにも届かないし、他者に到達しない。

 

 愛知を去る前にMに貰った香水の匂いを嗅ぎながら、世界を燃やしても自分が残る、と友人がむかし発していた言葉を思い出していた。

2018/08/26

 北千住のオーセンティックバー・Peaceは古着屋・髭の隣、或いはささやの向かいにある、と言えばわかりやすいだろうか。あまりひとで賑わっても静かに飲みたい人間としては困るのだけど一方で多くのひとに行って繁盛して欲しいので書く。カクテルは美味しいし、ウィスキー、ブランデーは50年前のもの、ボトラーズなども取り揃えていて至福の時間を味わえる。そういうこだわりの強い店で、マスターの人柄が肩肘はらないのがこの店を魅力的にしている。

 音楽もよい。クラシックやジャズが流れる。有線ではない、いずれもマスターがCDを選んでかけてくれる。ぼくはここでキース・ジャレットに出会った。

 

 昨晩飲んだもの。サイドカー、ロングモーン41年、ポート・アスケイグ・ハーバー(カリラ)19年、マティーニ

 

 昨晩いっしょに飲んだ相手は生年月日が一日ちがいのひとだった。ぼくはいて座性が前面に出ていると自認しているけれど彼にはおうし座の影響を強く感じた。ひとは星の影響だけで生きているわけではないが、いずれにせよドッペルゲンガーが現れなくてよかった。こんな時、友情にせよ愛情にせよ、それが生じるのは他者の他者性から出発するのだと再認識させられる。

 

 強烈な思慕が距離を殺戮したいと願うとき、おそらく最も距離を意識している。

2018/08/19

 8月18日の土曜日に蛮天丸さんと綾瀬の大松で開店前から並んで飲んだ。ぼくがどうしてもアブラ味噌とタン塩を食べたかった所為だ。大松のボールともつ焼きの味噌はさながら補色のように絶妙な関係を保っているが、中でも開店直後にしか注文できないアブラ味噌は一度食べておきたかった。これはとても美味しかった。

 注文はアブラ味噌、ガツ刺し両方、タン塩、カシラ味噌。互いにボールを三杯ずつ。煙草を美味そうに吸うね、と言われる。美味いよ、と答えた。

 

 「それでも私は雪を見る」について。蛮天丸さん曰く、あの小説の白眉である「ぼく」と菊池さんが雪の中で手を繋ぐシーンには下敷きがあるとのこと。中学受験の国語の問題に出たそうだ。そしてその小説は、手を繋いで終わる。設問は、「この小説の続きをあなたが書きなさい」。

 当時彼は去った女の子を追って電車に乗り込む展開を書いたそうだ。でも後に考えると小学五年生で電車を使うのは不自然だと思ったという。だから、改めてその設問へのアンサーとして、後の場面を書いたのだという。

 飲みつかれたあとカフェ・ベローチェで歓談して、最後は北千住でもっとも素晴らしいBarのひとつ「Peace」で素晴らしい酒を飲む。値段も意想外だったが蛮天丸さんが立て替えてくれた。あの体験には代えられない、とかれは言った。会計は二万九千円だったので、ぼくが後日払う分は一万四千五百円だ。面目ないが本当にいま経済的に盤石からは程遠い。贅沢を心得てはいるが実際は貧しいのだ。台所はずっと燃えている。

 

 思えば8月はよく綾瀬で飲んだ。

 春日さんと、木曜日と金曜日に飲み、土日を挟んで月曜日にまた飲む、なんてことをやった週もあった。とにかく大松の味噌とボールは一度口にしたら愛おしくてたまらなくなる。煙草並みの依存症がある。串揚げのこたにのこたにサワーも悪くない。ここは何と言っても安い。サワーが100円だ。しかもジョッキで来る。缶ジュースより安い。春日さんには感謝している。

 

 ベランダで煙草を吸っていると秋の気配があった。

 また季節が過ぎ去る。何の手応えもないまま歳を取ってゆく。人生は花火のように勢いよく爆散するには少し長いが、やはり、やはり、短い。小説や詩の傑作を書き上げられるだろうか。そうして愛するひと達と長く一緒に過ごしたい。でもやはりたまには酒を飲みたい。貧しくして死んでゆくのかもしれない、ぼくらは。何も分からない。「平成最後」とか謳われる、暑かっただけの平凡な夏が間もなく過ぎ去ろうとしている。

 

 こんなはずじゃなかった、という言葉はまだ口にしない。

2018/08/12

 

 

 

蛮天丸 「それでも私は雪を見る」

( https://ncode.syosetu.com/n9802ew/ )

という小説を読んだ。URLは「小説家になろう」のサイトへのリンクとなっている。

 

 

 以下は私信。

 

 

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 ふいにきみがオリジナル小説を書き上げたというのでおどろいた。でも、それ以上におどろいたのは、この小説全体を貫いているきみの誠実さだった。倫理の規範とかいうのではなくって、たとえば文体がそうだ。ここに文体はあるし、でも文体、という言葉から連想する個性的であろうとするポーズのようなものがない。もちろんこの小説が、どんな先行作品の影響の上に成立しているか、ぼくは個人的にもきみを知っているので、そうして小説中にもそのオマージュは重要なモチーフになっているから、それはひしひしと伝わるんだけど。

文体における誠実さとは、物語にどこまでも忠実であろうとする文章の姿勢だ。「ぼく」こと高山の回想する、菊池との思い出にぴったりとしたトーン。まわりの音を消しながら降る雪のイメージ。文体と物語が一体となって些かも夾雑物がない。そういう誠実さに打たれた。

 

 それは菊池まどかと「ぼく」を繋ぐ一冊のテキストに通底しているのかもしれない。「ぼく」は、どうして菊池がこんな絵本のような本を読むのだろうと首を傾げる。もし菊池が大人ぶって難解な文学を読んでいたら、菊池とのささやかな出会いは存在しなかったかもしれない。平易で、それでいてどこまでも人の心に沁みとおる物語。画家が絵のなかに自身のすがたを書き入れるように、それはきみの小説に対する姿勢を刻んだもののように、ぼくには思えた。もちろん、菊池はどうやら本当にその「かえるくん」が好きらしい、というのはぼくが後に察するところで、だから菊池は質問攻めに遭って淡々と答える顔ではなく、好きなものを好きなだけ語り倒す顔を「ぼく」の前にだけ見せてくれる。

 これはぼく個人の記憶とも響き合っていて、明かすのは恥ずかしいのだけど、あの場面にはそういう秘密を共有する甘い瞬間を呼び覚ましてくれる力があった。いずれにせよ一冊のテキストが、ほとんど断絶した者同士の間を繋いでくれる。菊池と「ぼく」。それはあくまで「それ自体」なのだけど、作者と読者、或いは読み手と、読み手の奥底にふだんは沈み込んでいるむかしの夢や記憶の間柄の比喩のようにも読んでしまうことができる。

 最近、ネット記事で読んだラッパーのケンドリック・ラマ―の発言がずっと印象に残っている。「俺たちがやっていることは、9時〜17時のシフトにうんざりしながらも、毎朝渋々仕事に出かけていくヤツらのためにあるんだ。」

 そう、満員電車で揺られて出勤する大人(ぼくもその一人だ)にも、何某かの子ども時代は存在する。甘く、そして苦いものに変わってしまった夢のような時間を誰しも過ごし、或いは夢を見たことはあるだろう。

ぼくは、きみの物語を読みながら、ひとつひとつの場面が、そんなふうに奥底に沈んだ、あの夢のような様々な時間と反響し合うのを感じた。繰り返しになるけどそれを可能にしたのは、この小説に横たわる一途な誠実さなんだ。そしてだからこそ菊池とのすれ違いは痛ましいし、その別れる前日の場面の繊細さ、優しさは、ずっと心に残り続けるものになる。

 

この小説はそれにまた純粋に子どもの目で見た世界ではない。あくまで、かつて子どもの目を持っていた大人の回想だ。もう取り戻せない、それでいて生きる年月を重ねるたびに、その重さをひしひしと増すのを感じている、一人の人間の回想。「ぼくは綺麗な夢を見続ける、小さな大人になってしまった。」

 事の重大さ、というのはその瞬間以上に、過ぎ去ったあとに来る。「ぼくのせいなんだ。ぼくは菊池を離しちゃいけなかった」と心の中で叫ぶとき、もう彼女はいない。ただ彼女の言葉だけが残っている。そうして、短い時間のあいだに垣間見えていたはずの菊池のほんとうの内心の一端は絵本のしおりの書き置きを通じて語られる。

 そんなふうに、ひとは常に他者を取りこぼし続けるのだろうか。

 すこしだけ「ぼく」よりも大人だった菊池。その大人の世界に、彼女の不在と悲しみを通して足を踏み入れる「ぼく」。

 

 でも、同時にぼくは知っていた。離さないなんてこと、できるわけがないんだ。ぼくたちは自分たちの場所に帰らないといけない。どんなにぼくたちが繋がっていると思っていても。ぼくたちはいつか手を離さないといけない。

 

 それが、おとなになるっていうことなんだ。

 

 きみの小説をぼくは全部じゃないけど、それなりに長く読んできた読者の一人だ。自分の元いた世界にちゃんと帰ってくる、ということ。でも、そのとき常に帰る先にはそこで待つものがあった。「向こう側」へ行くことと、「戻ること」どちらの方向に傾くにせよ、そこに意味をもたらしてくれる何かがあったように思う。でもこの小説はそうじゃない。何故なら「ぼく」は、この離別を通じて世界の色を失ってしまっているのだから。愛する者の不在を常に後悔と共にひしひしと感じながら生きざるを得ない、ということ。それはなんて苦々しい帰還だろう。

 その苦々しさの味を、もう一度追体験しながら知るとき、ぼくもまた、この「ぼく」と同じように大人になってしまっているのだな、と寂しく感じる。同時に、物語に書き込まれた離別と不在の苦々しさが、この孤独を背負っているのが一人自分だけではないのだと知って、慰められもする。

 その手を離すべきではなかったと、ぼくもまた何度後悔したことだろう。どうにもならなかったな、と一方で思う。そんなどうにもならなさが、物語を通じて共鳴する媒介になるとき、苦い経験もすこしは救われるような気がする。それにこの小説のタイトルは「それでもぼくは雪を見る」ではなく、「それでも私は雪を見る」なのだ。電話ボックスの電話越しに、もう声を直に聴けないとしても同じ空のしたできみも雪を見て、そのひとときを思い出す日もあるのだろうと、想像し、信じること。すこしだけ大人になった菊池の目を想像する。痛ましい、でもこんな愛情の持ち越し方があってもいいんじゃないかと、読了後にそんなことを考えた。

 

 物語を語るきみの声、それはきみ固有のものだ。ぼくはそれをあらためて感じる。ぼくがこの先、どんなにぼくなりに小説や詩を書き続けたところで、ぼくはきみの声を呑み込んで代弁者になれるわけじゃない。その、きみ固有の声に、ぼくは刺激を受け、励まされ、時にはこうして慰められたりもする。この小説を読めてよかったと思う。

 いつか終わるだろう、ときみはむかし言っていた気がする。こんなふうにきみがきみの声を、渾身のちからを傾けて響かせる日を。でも、どうかその日々が一日でもながく終わらないでいてくれることを、ぼくは願っている。ぼくはもっともっと、この先も、ほかの誰でもない、きみの声が聴きたいんだよ。

 

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 じゃあ、またな。

 

 

 

2018/07/29

 物語についてここ数か月とりとめもなく考えることが多い。文学論上のいわゆるナラティブのような話ではない、どちらかと言えば卑近な因果の図式についてだ。いまの苦労がいずれ糧になる、のような。

 科学の法則でもない現実の因果について的確な回答なんて導出できるはずはないのだけど、どうしてか、ひとは奇妙な因果に囚われ、その奇妙な因果を証明するかのような出来事が起こったりする。それもまた偏見というもので、発生しえなかった物語は、目立たないままひっそりとあるがままに事が運んだのだろう。やがて現実という言葉に要約される。

 

 いわゆる地下鉄サリン事件でたまたま遅刻したおかげで事件に巻き込まれなかった逸話のようなものだ。その偶然は、生き延びたひとに何らかの認識をもたらしたかもしれない。自分は運がいい、とか、選ばれている、とか。一方で確かに死んだひともいる。彼らは不運なのだろうか。強運も不運も、ひとしく偏見に過ぎないとぼくは一応はそのように思う。にもかかわらず、ひとは過度に因果を見出すし、ぼくもまたそうした人々のうちのひとりだ。ぼくらは平然と運命という言葉を使う。そうした運命、因果の綾を物語と呼ぶ。日々様々なメディアを通じて消費する。

 

 そういう意味での運命に執着していた時期のじぶんは精神的にも経済的にも非常に危うい状況にあった。経済面にかんしては破滅寸前まで行った、といってもよいだろう。寸前、と書いてしまったのは、意想外な一手によりそれを免れたからだ。それはぼくの意識に何らかの認識をもたらしてしまった。日々分を守って生活するつつましい市民のリアリティには同調できないが、さりとて破滅し、路上生活などを営んでいる人間のリアリティには触れ得ないという程度のものを。破滅体験はひとを一挙に偉大にするのではない。ただストレスから救済され、別な日々の義務が生じただけだ。生きているそれだけだ。

 

 精神面に関してはもうひとつあるのだが、ひとりの、いまは去って帰ってこないひとにまつわる悔恨と再会への待望がそれをもたらした。かつて、どうしてぼくらは再会する筈だと、臆面もなく信じていられたのだろう。そのときぼくは物語を信じていたのだ。愛する者同士は別れてもいずれ巡り会うのだと。

 まいにち彼女のことを考え、詩に彼女の面影を刻もうと試行し、彼女が不在の世界に彼女の痕跡を探した。最後のひとつは完全な徒労だった。でもやめることが出来なかった。小説「失われた時を求めて」に、アルベルチーヌについてだが、二度の死という表現が登場する。一度目は実際に消え、二度目は忘却してしまうことだ。ぼくは絶対に二度目の死は喰いとめなければならない、という強迫観念の最中にあった。それが当時のぼくに可能な彼女への誠実だと思われたから。

 

 けれども或る日、雨だったが、きりきりと張り詰め強迫された精神のまま、労働を終え帰路を歩く道すがら、ふときざした。彼女のなかで、ぼくはとうに死んでいる、と。それもまた単純に、根拠のない、じぶんの限界をそのように他者に責を押し付け表現したに過ぎないものだった。が、そのとき擦過した認識のリアリティは確かで強かった。小説のアルベルチーヌは実際にその肉体が死んだが為に、二度目の死は彼女の記憶を反復する語り手のなかでのみ執り行われるほかないが、ぼくの世界でのアルベルチーヌは、おそらくだが生きており、ただ消息をもはや知ることが出来ない。すなわち行為可能な存在はぼくだけではないのだ。それでも再会はない。あれだけ弓を引くように、強くつよく待望した物語の結末が幾年を経ても到来しないこと。これが答えだった。そして、その結論を得て以来、ぼくのなかでも彼女の二度目の死が進行しつつある。もはやさしたる良心の咎めもなく。

 

 「失われた時を求めて」の語り手はその後、憧れのヴェネチアに赴きそこでジルベルトからの手紙を受け取る。ジルベルトは語り手の初恋の相手だ。でもぼくには赴くヴェネチアはない。ただ、物語が終わり、待望した結末のすべてが砕けて以後も普通の日々が継続し、そうして生きなければならないことをおぼろに学んだだけだ。漫画に出てくる戦闘民族のように、瀕死から復活すれば戦闘力が格段に上昇する、なんて設定があればよかったのだけど。ひと並みに教訓を得て、それよりも遥かにぼくはぼくのままだ。

 

 けれども昨日と今日の境目の時刻に、ふいにジルベルトが戻って来た。ぼくの世界にとってのジルベルトに当たるひとだ。小説のなかのジルベルトは語り手の親友、サン・ルーと結婚することをぼくは知っている。でも、この世界はそんなふうに物語ではないと、すでにぼくは知っていて、知りながら、彼女の消息をふたたび得て再会したとき、性懲りもなく、けれどかつてよりは強く自由意志を駆動して、相も変わらず物語のようにこの先の日々を生きてみたいと願っている。